築地浴恩園と松平定信

江戸時代を代表する名園の一つであり、東京都の文化財に指定されている重要な史跡である松平定信の「浴恩園」を皆様ご存じでしょうか。NHK大河ドラマ「べらぼう」でも活躍する松平定信にスポットを当てつつ紹介させていただきます。

築地浴恩園

浴恩園は、江戸時代中期の「寛政の改革」で老中として活躍した松平定信(まつだいら さだのぶ)(1758-1829)の下屋敷に作られた庭園です。定信は、1792年(寛政4年)にこの地を拝領し、工夫を凝らしてこの名園を造り上げました。定信は生涯で5つの庭園を作りましたが、中でもこの浴恩園は「天下の名庭園」として知られていました。

浴恩園は、江戸湾の海水を引き込んだ「春風の池」と「秋風の池」という2つの池を中心とする「汐入回遊式庭園」で、潮の満ち引きによって池の水位が変化し、庭園の趣も変わるという、当時としては画期的な造りです。

池の周囲には築山や橋、茶室などが配置され、変化に富んだ景観を作り出していました。また、身分を超えて誰もが入園できる開かれた庭園であったとも伝えられています。(「浴恩」とは、「天皇や主君の恩恵にあずかる」の意と伝わります。)

 

松平定信

陸奥国白河藩3代藩主。白河藩では、天明の飢饉を経験し、領民救済を実現した。白河藩の飛び地である越後から米を配給し、食料を調達して領民の暮らしを支えました。彼の数々の政策によって白河藩の人口は大幅に増加し、一定の効果を上げています。

その後、老中として寛政の改革を実施。具体的には、経済基盤の強化に努め、不正役人を罷免し、不正行為を厳しく処分しました。寛政の改革は、領民に寄り添った民主的な善政製作であったと言えます。

また、荒れ地や農業用水の再開発に多額の公金貸し付けを行い、農村の復興を図りました。

さらに、代官の任期を長期化することで、責任を持たせて代官職にあたらせ、「名代官」が生まれたといいます。高齢者への配慮ある政策を重視したのもまた、保科正之の善政を参考にしたものだと言われており、まさに人々に寄り添う名藩主だったと言えるのではないでしょうか。

 

松平定信の善政に影響を与えたという人物

会津藩保科正之(初代会津藩松平氏で2代将軍秀忠の子)の治世は、その善政が評価され、後の徳川吉宗や松平定信にも影響を与えたと言われています。

保科正之は3代将軍家光により松平姓と葵紋を賜っていますが、保科家への恩義を忘れず生涯保科姓を名乗っていたそうで、今の福島県会津でも慕われている偉人です。

 

築地浴恩園その後の変遷

  • 被災と再開発: 1829年(文政12年)に起きた江戸の大火事で庭園は被災し、池だけが辛うじて姿を保ったとされています。
  • 海軍用地へ: 明治維新以降は海軍関係の用地となり、海軍発祥の地ともされています。
  • 築地市場の開場: 1923年(大正12年)の関東大震災後、日本橋にあった魚市場が移転し、1935年(昭和10年)に築地市場が開場しました。浴恩園の跡地は、その市場の敷地となりました。

現在の浴恩園跡地

現在は、旧築地市場の敷地内に「浴恩園跡」として都の旧跡に指定されており、一部に説明板が設置されています。

 

築地市場跡地再開発問題との関連

築地市場が豊洲に移転した後、その広大な跡地の再開発計画が進行しています。この再開発において、かつての名園である浴恩園をどう扱うか、という点が大きな問題となっています。

  • 「幻の庭園」の再生: 約90年間にわたり地下に保存されてきた浴恩園の遺構について、2022年には初の試掘調査が行われ、庭園の史跡が発掘されました。
  • 市民団体の活動: 「浴恩園」を現地で再生させ、都民・国民の広場として活用すべきだという市民団体が活動しており、再開発計画の見直しを求める声が上がっています。

 

浴恩園は築地の様々な歴史が絡み合っており、この地そのものはその後も「築地市場」「海軍省の発祥地」として有名です。

幕末から明治にかけて活躍した日本の政治家であり、幕臣だったといわれる勝海舟は、明治政府で海軍の要職を歴任しており、築地が日本の海軍の拠点であったことは、彼にとって重要な意味を持つ場所だったようです。

皆様も是非築地に行かれる際には行かれてみてください。

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